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錬金術師は長いこと必死に努力したが、どうしても成功せず、結局はその事業をあきらめるよう説得されてしまった。
失敗は避けられなかったのだ。
なぜなら、卑金属の行動はいかなる論述、呪文ないしは儀式などによっても変えることのできない普遍的に有効な法則によって支配されているからだ。
近代のエコノミストたちに、特に政界や金融市場で与えられている威信の高さは、中世の錬金術師がまったく見当違いをしていたことを示している。
卑金属は呪文で金に変えることはできないが、人々は誤った理論を提起したり、願望を成就させるような予言をしたりして、金融市場で大儲けをしたり、政界で権力を得たりすることはできるのだ。
そのうえ、科学的な姿を装って舞台に登場することができれば、成功の可能性はますます高くなる。
そういえば、マルクスもフロイトも、それぞれの理論の科学的立場を声高に主張し、結論の多くを「科学的」であることから派生する権威をもとにしていたことは注目に値しよう。
この点が十分飲み込めれば、「社会科学」なる表現そのものがうさんくさいものになってくる。
これこそ、社会的錬金術師たちがみずからの意図を呪文によって主題事象に押し付けようとするときに使う魔法の言葉であることがしばしばである。
社会科学者たちは事実、自然科学のまねをする努力を惜しまなかったが、その割には成果はきわめてとぼしかった。
彼らの努力は自然科学の拙劣な模の域を出ないことがしばしばだった。
しかし、社会科学者の失敗と錬金術師の失敗には重要な違いがある。
錬金術師の失敗はほとんど完全な失敗だったが、社会科学者は自然科学の権威を不正使用して、かなりの社会的、政治的影響を与えることに成功してきた。
人々の行動は、まさにそれが現実によって支配されていないという理由から、理論によって簡単に左右される。
自然現象の分野では、科学的な手法は理論が正しい場合にのみ有効である。
しかし、社会的、政治的および経済的なことがらでは、理論は正しくなくても有効になりうる。
錬金術は科学としては失敗したが、社会科学は錬金術として成功できるのだ。
カール・ポパーは政治的イデオロギーが科学の威信を悪用して、歴史の流れを左右する危険があることをみてとつた。
その危険はマルキシズムの場合に特に深刻だった。
科学的手法をこの種の悪用から守るため、彼は反証できない理論は科学的という資格がないと宣言した。
だが、この世界で最善の意思をもってしても、相互作用性のある現象をポパーのモデルの鋳型にはめ込むことはできないし、その要求を満たすように設計された理論でさえ、政治的目的に悪用されることがありうるのだ。
たとえば、エコノミストたちはみずからの行くべき道をはずれて価値判断の持ち込みを避けてきたが、まさにその事実のために、彼らの理論はレッセフェールの唱導者たちに取り込まれてしまい、考えられる最も普及した価値判断市場競争のもとで達成されるものほどよい社会的結果はほかにありえない、という価値判断の基礎として使われるようになっている。
科学的手法を守るにはもっといい方法がある。
そのためにわれわれがなすべきことはただひとつ、社会科学にはわれわれが自然科学に与えているような地位を得る資格がないし、将来も決してない、と宣言するのだ。
この場合、社会的、統計的な調査研究でどのような飛躍的前進があろうと関係はない。
こう宣言すれば、にせ科学的な社会理論が借り物の羽根を飾ってパレードすることはなくなるだろう。
それはまた、そうすることが適切でない分野で自然科学の卑屈な猿真似をするのを思いとどまらせることになろう。
それは人間の行動を支配する普遍的に有効な法則を確立しようとする試みを防ぐことにはなるまいが、結果についてのわれわれの期待の度合いを低下させることに役立つだろう。
これでできることはまだある。
われわれが知識の限界と折り合いをつけることを可能にしてくれるだろうし、科学的な地位を得たいという信奉者たちの野心のためにやむをえずまとつていた拘束服から社会科学を解放することになろう。
これは私が『金融の錬金術』という著書で、社会科学を誤った比愉と呼んで主張したところである。
ポパーのモデルは時間を超越して有効な普遍化の理論とうまくかみあう。
相互作用性は時間の制約を受けた、逆行不能な過程である。
それがなぜポパーのモデルとかみあわねばならないのか。
社会科学には限度があると認識しても、それはわれわれが社会現象を探求するにあたって真理の追求をあきらめねばならない、ということではない。
それは真理の追求にあたっては、人間の行動には時間を超越して有効な法則で支配されない側面もあることをわれわれが認めなければならない、ということである。
これは、理解するには別の通り道を探った方がいい、とわれわれを励ましてくれているようなものだ。
真理の追求はまた、社会現象がその現象を説明するために唱えられた理論によって影響を受けるかもしれないことを、いやでもわれわれに認識させる。
その結果、社会現象の研究は真理の探求以外の目的が動機となるかもしれない。
科学的手法の悪用を防ぐ最善の方法は、社会的な理論がその関連する主題そのものに影響を及ぼしかねないことを認識することである。
経済理論は自然科学と競い合う最も遠大な試みで、これまでずば抜けて成功してきた。
古典経済学者はニュートンの物理学に発奮させられた。
彼らは経済的な行動について、その説明と予測の両方ができる普遍的に通用する法則の確立を目指し、この目標を均衡という概念に依拠して達成したいと考えた。
この概念は経済分析を最終結果に焦点を合わせ、一時的な乱れは無視することを許すものだった。
振り子は振幅がいくら大きくとも、同じ場所で静止するようになる。
この(十分長い期間のあとでひとつの体系が初めの状態に戻る条件にあるとする)統計学上の「エルゴード的」原理によって、経済理論家は市場が均衡化の役割を果たすという、時間を超越して通用するルールを確立することができたのである。
均衡の概念はすこぶる有用である。
だが、同時にきわめて人をあざむきやすいものでもある。
なにか経験的なオーラを発散させてはいるが、実際はそうではない。
均衡そのものは現実の生活ではめったに観察されたことがないし、市場価格は激しく変動するという、評判の悪い習慣がある。
観察できる過程は均衡に向かって動くように見えても、均衡には永遠に達しないかもしれない。
市場参加者が市場価格に合わせていくのは確かだが、それは常時変動している目標値に合わせているのかもしれない。
その場合は参加者の行動を調整過程と呼ぶのは呼び間違いかもしれない。
均衡は公理的システムの産物である。
経済理論は論理学や数学のように構築されている。
すなわちある種の仮定にもとづいたもので、その結論のすべてが論理的な操作によってそうした仮定から引き出されている。
均衡に達することは決してないという可能性があるからといって、この論理的構築を無効にする必要はないが、仮定のうえでの均衡が実態のモデルとして提示されると、現実がかなりゆがめられた形で導入されることになる。
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